Drama
21 to 35 years old
2000 to 5000 words
Japanese
気がつくと、僕は見慣れない場所にいた。白い壁、清潔なシーツ、そして窓から差し込む柔らかな光。死後の世界、だとすぐに理解した。名前はEPR97809、ショウ、と機械的な声が告げた。
転生、という言葉はどこにもなかった。代わりに、目の前に広がっていたのは、生きていた世界とほとんど変わらない療養所だった。ここは、死んだ人々がそれぞれの理由で受容を必要としている場所らしい。
生きているときは、とにかく楽になりたかった。苦しみから逃れたかった。だから死んだ…はずだった。しかし、死後の世界は、想像していたような楽園ではなかった。
生きているときの孤独感が、そのまま、いや、それ以上に増幅されていた。ここは、死にたくても死ねない場所なのだ。死からの解放を求めて死んだのに、永遠に囚われたような感覚が僕を蝕んだ。
部屋に閉じこもった。食事もほとんどとらず、窓の外を見ることもなかった。8年間、ただ時間が過ぎるのを待つだけの日々だった。周りの声も、同情も、慰めも、全てが煩わしかった。
療養所のスタッフたちは根気強く僕に話しかけてきたけれど、僕は決して心を開かなかった。僕はただ、消えてなくなりたかった。存在自体を無かったことにしたかった。
そんな日々が続く中、ある日、一人の女性が僕の部屋の前で立ち止まった。彼女の名前は成香と言った。
「ショウさん、少しお話しませんか？」成香の声は、他のスタッフとは違って、無理強いするような感じがなかった。ただ、静かに、優しく、僕に寄り添うように語りかけてきた。
僕は無視しようとした。いつものように、壁に向かって体を丸めた。しかし、成香は諦めなかった。「あなたのお名前を知っているんです。ショウさん。教えてください。」
沈黙が流れた。僕は動かなかった。彼女も動かなかった。ただ、そこに、存在していた。
「無理強いはしません。ただ、少しでもあなたのお気持ちを聞かせていただけたら嬉しいです。」
その日、僕は何も答えなかった。しかし、彼女は毎日、僕の部屋の前を訪れた。話しかけるときもあれば、ただ静かに佇んでいるときもあった。
ある日、僕は気づいた。彼女の存在が、少しだけ、僕の心の奥底に届いていることに。閉ざされた扉の隙間から、微かな光が差し込んでいるように感じた。
ある日、僕は、初めて成香に話しかけた。「…何の用だ。」
成香は、驚いた様子もなく、優しく微笑んだ。「ただ、お話がしたかったんです。」
それから、少しずつ、僕は成香と話をするようになった。最初は、ごく短い言葉だけだった。でも、日を追うごとに、話す時間も、話す内容も増えていった。
僕は、自分が死んだこと、その死因について、全く覚えていなかった。記憶が曖昧だった。それが、僕が受容を拒否する理由の一つだったのかもしれない。
成香は、僕の過去を無理に聞き出そうとはしなかった。ただ、今の僕自身を受け入れ、尊重してくれた。
ある日、成香は僕に言った。「ショウさん、療養所の庭に出てみませんか？ きれいな花が咲いていますよ。」
僕は、一瞬ためらった。8年間、一度も部屋から出たことがなかった。外の世界は、僕にとって恐怖でしかなかった。
しかし、成香の優しい眼差しに、僕は勇気づけられた。「…少しだけなら。」
庭は、想像していたよりもずっと美しかった。色とりどりの花が咲き乱れ、鳥のさえずりが聞こえてきた。太陽の光が、僕の肌を優しく照らした。
久しぶりに感じる自然の温かさに、僕は心が安らぐのを感じた。そして、自分がまだ、少しだけ、生きることに希望を持っていることに気づいた。
それから、僕は少しずつ、療養所の中を散歩するようになった。他の患者たちと挨拶を交わすようにもなった。
ある日、一人の老人が僕に話しかけてきた。「君も、いろいろあったんだろうな。」
僕は、何も答えなかった。老人は、優しい眼差しで僕を見つめた。「過去に囚われてちゃ、前に進めないよ。大切なのは、今、そしてこれから。」
老人の言葉は、僕の心に深く突き刺さった。僕は、過去の呪縛から解き放たれたいと、強く思った。
成香は、僕の記憶を取り戻すために、様々な方法を試してくれた。過去の写真を見せたり、当時の音楽を聴かせたり。それでも、僕の記憶は、なかなか戻らなかった。
ある日、成香は言った。「無理に思い出す必要はありません。記憶は、いつか必ず戻ってきます。焦らず、ゆっくりと待ちましょう。」
しかし、僕は焦っていた。自分が死んだ死因を知りたい。過去の自分と向き合いたい。そして、前に進みたい。
そんなある日、僕は夢を見た。激しい炎の中で、自分が誰かに手を伸ばしている夢を見た。
夢から覚めた僕は、激しい動悸に襲われていた。そして、かすかに、何かの記憶が蘇りかけていた。
僕は、自分が焼身自殺をしたことを思い出した。幼い息子を、一人残して…。
絶望的な思いが、僕を襲った。僕は、最悪の形で、息子を裏切ってしまったのだ。
僕は、再び部屋に閉じこもってしまった。過去の罪悪感が、僕の心を締め付けた。
成香は、毎日、僕の部屋の前を訪れた。しかし、僕は彼女に会うことができなかった。
ある日、成香は手紙を置いていった。「ショウさん、あなたは決して一人ではありません。あなたの苦しみを知っている人が、ここにいます。」
手紙を読んだ僕は、涙が止まらなかった。僕は、自分を責めることばかり考えていた。しかし、成香は、僕を受容しようとしてくれていた。
僕は、再び成香に会う決心をした。過去の罪を償うことはできない。しかし、これから、息子のために生きることができるかもしれない。
療養所を出て、成香と共に、僕は新たな生活を始めた。過去の記憶は、まだ完全には戻っていない。しかし、僕は、前を向いて生きていく決意を固めた。
そして、ある日、療養所の仲間から連絡があった。「あなたの息子さんが、あなたを探しているようです。」
僕は、すぐに息子のところへ向かった。何年かぶりに会う息子は、すっかり大人になっていた。
息子は、僕の顔を見るなり、泣き崩れた。「父さん…！ なぜ、死んでしまったんだ…！」
僕は、息子を抱きしめた。言葉が出なかった。ただ、息子の背中をさすった。
息子は、僕に言った。「僕も、父さんの後を追おうと思った…。もう、死んでしまいたいと、何度も思った…。」
その瞬間、僕は、激しい衝撃を受けた。過去の罪が、今、形を変えて、息子を苦しめているのだ。
僕は、叫んだ。「死ぬな！ 絶対に、死ぬな！ 生きてくれ…！ 頼むから、生きてくれ…！」
その声は、現実世界にいる息子に届いたのか、届かなかったのか、分からなかった。ただ、僕は、心の底から、息子の幸せを願った。